奈良の居酒屋「いづみ」で亡き祖父母と過ごした夜を想い、静かに酔った話

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奈良に「いづみ」という夫婦で切り盛りする小さな居酒屋がある。酔っぱらいにはお馴染みの番組『酒場放浪記』でも取り上げられたことがある店、といえば大方どんなお店かは想像してもらえると思う。名物の鮑腸汁(ほうちょうじる)という麺入りの汁物をお目当てに、さらにはビールも飲んでという程度の軽い気持ちだった。自慢にもならないけれど、お酒はだいぶ強い。飲んでも飲んでも酔わないのだが、たった2時間の滞在で泥酔する事態になってしまった。まあ、取り留めのない話だけど聞いてもらいたい。

かつて花街だった風情が残る、町家がひっそりと立ち並ぶエリア。赤提灯に名物の鮑腸汁の文字が目印だ

私は予定を立てて旅をすることを好むタイプだ。そういってしまうと聞こえはいいが、旅費を使って行く旅だけに何事も効率よく進めたいという貧乏性ゆえのサガでもある。何度か出発前に「いづみ」へ予約の電話をしたが、一向に繋がらない。まさか一度も鮑腸汁を味わうことなく営業をやめてしまったのではあるまいな、と不安になった。実際、コロナ禍でそんな店は少なくない。

営業時間よりも多少早めの時間だが仕込みで店には誰かしらいるだろう。奈良駅に着くなり再び電話をしてみると「はい、もしもし」と、大きな声の年配男性が電話に出た。ああ、よかった営業しているみたい。

「あの、今日の18時頃にひとり、予約したいのですが」と言うと「はいどうぞー」と返事が聞こえたきりガチャンと通話が切れてしまった。え、入れるっぽいけど名前も聞かれなかったぞ、大丈夫かな、と再び不安になってくる。まあ、でも営業中ならなんとかなるか。予約が取れたのだか取れていないのだかわからないまま、宿に荷物を預けていづみに向かった。狙ったわけではまったくないけれど、宿泊していたホテルからはぶらぶら歩いて3分の近距離。これで鮑腸汁にありつけなかったら、猿沢池に飛び込みたくなるほどショックだ。

「いづみ」暖簾をくぐった先には、さらにまたガラスがはめ込まれた重いドアがあった。置屋の独特な造りなのだろうか。恐る恐る開けると、ぎゅっと詰まったような狭い民芸調の店内が現れた。

カンバンまで飲んでいたので空いた店内が撮れた。グループなら3組がやっと入れるような狭さ

店内は奥の半個室に常連とおぼしきおじさま連中、手前のテーブルには観光で奈良に来たという家族連れが座っていた。細い体で腰を曲げた老婦人が奥から出てきて「お姉さんはここでいいかしら」と、カウンター席を案内される。どうやら女将さんのようだ。テキパキと箸を出しながら早口で「メニューは壁にありますからね、決まったら声を掛けてください」と言うと、足早にまた奥へ戻ってしまった。厨房にも暖簾が掛かっていたけれど、小上がりになっているカウンター席からは中の様子がよく見えた。ご主人とふたりで、まさに調理の真っ最中だった。ふたりともゆうに70歳は超えている風体だ。

置いてあるものすべてが年代物。思えば祖父母の家の台所もこんな感じだった

兎にも角にもまずはビール。生中を頼み、壁に掛けられた短冊のメニューからアテに牛すじやしめ鯖を頼む。「ん?しめ鯖?」。関東ならば違和感を感じないだろうが、私は首を傾げた。関西ではしめ鯖を「きずし」と呼ぶ。先程の女将さんも関西訛りがなかったけれど、地元の人ではないのだろうか。

しめ鯖は酢がたっぷり汁だく。きゅうりやみょうがと一緒に食べる、いわゆる酢の物のようで面白い一皿

生中はカウンターの目の前に置いたサーバーから、女将さんがパパッと注いで出してくれた。この一口目が至福。しめ鯖を一切れ摘んでから、ぐいっといった。「んんんん???」。改めて二口、三口と飲んだがビールがやたら酸っぱい。

味噌のコクと牛の脂の旨味が渾然一体。甘い味付けだが、七味でキリッと締まっている

次いで出された煮込みに箸をつけて、さらに飲んでもやはり変わらない。ビールそのものが酸っぱいのだ。つまりはサーバーのメンテナンスの問題である。

カウンターから見える、グラスの洗い場。私が飲んだジョッキが2杯……

「これは大変だ」と、残りを一気に飲み干して瓶ビールに切り替えることにした。が、間髪入れずに女将さんが声を掛けてくる。「いい飲みっぷり。もう一杯飲む?」と、すでにビールサーバーの前でグラスを持っている。ここで「いや、瓶で」と言える強さが欲しい。やむなく酸っぱい生中を2杯飲むことになってしまった。幸いにして冷えているから、一気に飲んでしまうのは容易い。ふと、流し台を見ると私が空けたジョッキ以外に入っていないことに気づいた。奥の常連さんのグループ席を覗くと、キープしている焼酎ボトルと日本酒をやっていた。ああ、ここで生中を頼む人は少ないってことか。それはこうなるのもうなずける。

キスの梅肉挟み揚げ。ふんわり、さくっと揚がっていて大変おいしい

ご主人とふたりで調理しながら接客では、出てくるのも時間がかかるだろうと思いきや。作り置きできるものを選んだのもあるが、存外早く出てくる。揚げ物ですら「ちょっと時間ちょうだいね~」と言われても、そこまで待たされない。

超珍味と短冊に書かれていて、気になって注文した白子の味噌焼き。甘めの味噌が絶妙。お酒が無限に飲める

一気に生中を2杯飲んで、ご主人が白子が持って出てきたところでやっと瓶ビールに切り替えられた。この日飲んだラガーのおいしさは忘れられないだろう。あんまりおいしくて一気に2本空けてしまった。

気がつくと、後ろの家族連れは会計をして出て行き、奥の常連さんのグループもなにやらご主人とおしゃべりをしながら会計を始めた。私が店に入ったのは19時近くで、まだ20時を過ぎた時分。いつも思うが、奈良は本当に夜が早い。いや、奈良に限らず金沢や倉敷などは観光地といえど古都の夜は一様に早い。

店内は私ひとりになってしまい、なんとなく居心地が悪くなってくる。まだ飲んでいてよいのだろうか。そんな不安げな顔を察したのか、ご主人がカウンター席にどっかりと座って「夕方電話してきた人?」と話しかけてきた。ええそうです、と言いながら、グラスに入ったビールを一口で飲み干して“長居はしませんよ”というアピールをする私。ご主人は「いやいや、お強いですなあ。もう1本飲まれる?」と、笑いながら女将にビールを開けさせた。あら、まだ飲んでいてよいのね。

「あなた、阿波おどりに行かれたことある?」。ご主人はビールを飲む私をにこにこしながら見ている。私は手酌でグラスに注ぎながら「ええ、夫の父が徳島の出身なので何度か」と答えた。「ばあさんがね、もう80過ぎなんだけど連れていってやりたいんですよ。こんな仕事ばっかりしてるから、なかなか暇もないけどね。私は高知の出身なんです」と、急にご主人は身の上話を始めた。「高知からふたりで出てきてね、この店を始めたんですわ。奈良には縁もゆかりもない土地やからね。それでなにか名物を作らにゃいかんと。で、大分のだご汁を私なりに味を変えてね。飲まれる? 鮑腸汁」。私はだご汁のために大分に行くほどのだご汁ファンで、その話を聞いて飛び上がりそうになった。

飲んだあとの〆に最高の味噌味。なんなら何杯でもいけます

鮑腸汁のいわれは、店内に掲示されていた。豊後の地(つまりは大分のあたり)を治めた大名に鮑好きがいたけれど、旅先で鮑が手に入らない。そこで家臣が小麦粉を練り、鮑の腸を模した料理を出したのだという。だご汁は平たい麺だが「いずみ」のそれは細く延ばしてある。ダシの効いた味噌にカマボコやネギ、えのき、豚肉などが入っている。もう文句なしにうまい。

夢中でハフハフ、パクつく私に目を細めながらご主人は「最高でしょ、飲んだ後は」と笑った。何しろ父は味噌文化の中心地・名古屋の人で、母は香川に次ぐうどん県・埼玉の出身。その間に生まれた私にとっては、味噌仕立ての汁に小麦粉の麺とくればDNAが沸き立つ味だ。だしは大分だけにどんこしいたけにカツオだろうか。情けないことに、これを書いていてなぜそれすら聞けなかったのか恥じ入るばかり。アルコールがたんまり入った上に、おいしい料理で完全に舞い上がってしまっていた。

ペロリと完食してしまい、再び残っていた瓶ビールをグラスに注ぐ。「いつまで続けられるかわからんですよ。昼前から仕込みをしてね、5時に店を開けて……ずっと立ちっぱなしですから。正直きついんです。でもね、この味が食べたいって言ってくれるお客さんが多くてね。コロナの時も大変だった(※おそらく緊急事態宣言時のことだと思われる)ですわ。でも常連さんが色々と助けてくれましてねえ。ばあさんとどうにかやっていますよ」。ここまできいて、ビールが酸っぱい理由も合点がいった。お店の切り盛りだけでもう精一杯なのだ。常連さんはビールを飲まない以上、気づけるはずもない。

来る前に検索して出てきた「いづみ」の記事に掲載されていたご夫婦の写真は、どれも若かった。いや、決して一般的に若いといえる年頃ではないけれど、こうして対峙しているおふたりより遥かにずっと若い。そんなに昔の記事ではないのに今や髪は白く、深いシワと女将の丸くなった背中は時の流れの早さを感じさせる。

いつの間にか熱いお茶がテーブルに置かれていた。3人でフーフーとお茶をすすっていると、まるで晩年の祖父母の家の居間にいるようだった。実家にいるのがイヤだった私は、いつも祖父母の家の居間で一緒に夕食を食べ、時代劇を観るのが日課だった。21時になると風呂に入って寝支度をする祖父母は「そろそろ帰りなさい」と、私を玄関の外まで見送る。優しい時間の終わりの合図だった。

時計はあの頃と同じ、21時になっていた。そろそろお暇の時間がきてしまったようだ。「また来てくださいよ」と、ふたりして外まで見送ってくださる。ずっと手を振っているふたりを振り返り振り返り歩いていたら、涙が止まらなくなってしまった。この時ほど暗い路地裏の店でよかったと思った時はない。いい年をした大人が号泣しながら歩くのは大変恥ずかしい。

通い続ける店は、月日がたてば互いに老いていく。子供のころから通っていた喫茶店のママがまさにそうだった。気がつくと私は大人になり、ママはおばあちゃんになっていた。頼むメニューはクリームソーダからアイスコーヒーに変わったが、いつも一緒に頼むのはたまごサンドだった。

ところが、いつの頃からだろう。たまごとマヨネーズを和えたペーストがとても塩っ辛くなってしまったのは。それを言える間柄だったのに、なぜか言えないまま、注文するものをトーストに変えた。そして、ある時からママの姿はたまにしか見なくなり、息子が店に立つようになっていた。息子は私の同級生の兄だったので、気心の知れた店であることに変わりはなかったのだが。

「ママ、具合が悪いんじゃないよね?」と聞く私に「んー、というかね。クレームが多いんだ。サンドイッチなんだけど、しょっぱすぎるってね……。もうトシだからねえ、味覚がちょっとねえ」と彼は言葉を濁しながら、それが世代交代の引き金になったと言った。当時は「ああ、そうなんだ」としか思わなかった。

でも、年齢を重ねれば重ねるほど、それが果たして常連と店との付き合い方として正しかったのか、たまに自問自答してしまう。言いにくいことも言わなきゃいけない時があって、お店が長生きするためには必要なことだったのではと考えてしまう。いや、この手のことに正解はないとは思うけども。

次の奈良旅でも、間違いなく私は「いづみ」に寄るだろう。たくさんのお客さんのうちの一人に過ぎないけれど、おいしい鮑腸汁を食べて三人でまたお茶をすすりたい。あの優しい時間をまた過ごせる希少な場所に、私は帰りたいのだ。あれだけおいしい料理を一生懸命作って出すおふたりだから、生中でミソがつくのは違うなと思う。たまごサンドの反省から、私は後日、こっそりメモをしていたサーバーのメンテナンス用の電話番号に連絡をした。メーカー側として、なにかできることがあるのならとてもありがたい。チェーン店では出せない、あの味と雰囲気、あたたかい人柄は大いなる居酒屋遺産なのだから。


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